今朝の朝食はイタリア人の二人連れと一緒になった。我々よりはましな程度のスペイン語なので、彼らも英語ができるという謳い文句につられてしまったクチだろう。
食事が済んだら清算して(2泊と朝食2回と洗濯で75CUC)、今日からの宿 La Casona de Obrapía に引越。荷物だけ置いて出かけるつもりだったが、すぐに部屋を用意してくれて宿帳など宿泊の手続きを済ませてくれた。
Plaza de San Francisco の郵便局のポスト
そして、Plaza de San Francisco の郵便局で葉書を出す。建物の外にライオンの口がポストと思われたが、一応中の人に確認してみる。その後見ていたら lulun と同じように中の絵はがき売り場でポストの場所を訪ねている人がいる。そしてポストの写真を撮っている。みんな同じだ。
次は、郵便局の横にある旅行代理店で、明日の Viñales に行く日帰りツアーを予約する。日頃は自力でしか旅をしないのだが、たまには良いだろう。Viñales 以外にも Pinar de Río や葉巻工場見学、昼食などが組み込まれているらしい。二人で 110ドルもするが、通常のバスを利用しても足代だけで 60ドルぐらいはかかるらしいので妥当か。持ち合わせがあまりなかったので、申し込んだ後すぐ近くの銀行に両替に走ってからバウチャーを受け取る。
今日の事務的ノルマは終わったので、Havana Club がやっているラムの博物館 Museo del Ron Havana Club へ。いろんなものが情報より値上がりしていて、ここの入場料も一人7ドルに上がっていた。ガイドが案内してくれるシステムで、10分後にフランス語、15分後に英語のツアーが出発すると言うので、フランス語のグループで回ることにする。ガイドは訛っているもののしっかりとしたフランス語だった。「サトウキビ」「オキナワ」「わかりましたか?」という自分の仕事に必要な日本語の単語も知っているところはすばらしい。一緒に回ったのはナントから来ているフランス人家族と我々だけ。客に関係のあるフランスや日本、アメリカのことも交えて説明するとはなかなかできるガイドだ。一緒だった家族のお父さんが「どうしてフランス語話せるの?」と聞いてきた。アメリカに住んでいてフランス語を話す日本人と言うのが珍しかったのだろう。
ラムを作る行程よりも、ラムを作ってきた歴史と背景がおもしろかった。昔は奴隷の労力で作っていたものが、今や機械化されているという2枚の絵を見て、機械化されたからこそ奴隷解放が認められたんだと納得していた kame であった。
輸送の主力を担っていた鉄道関連の展示もあった。
試飲のラムは7年もののダークラム一杯だけ。アルコールは強いが、甘さが口に広がってなかなかおいしい。ラムは昔カクテルにはまっていた頃よく使っていたし、今でもお菓子作りに使うが、ここで飲んだラムの口当たりは新鮮な驚きだった。
旧市街の南側の海の方へ歩いて行く。こちらはあまり観光客の来ないエリアなので、建物の修復が進んでいない。
港の横、San Francisco de Paula教会裏にに立派なカバーがかかった古い機関車を発見。覗いたり写真を撮っていると、すぐさま警備員の服装をした人がやってきて中に入っていいよと言ってくれる。もちろんチップ目的。確かに線路跡はあるけれど、なんでこんなところにと思いながらも上がって写真を撮らせてもらう。警備員は本当は上がっていいという権利などないようでヤバいためか急がせる。保存状態はまともなほう。
San Francisco de Paula教会裏にあった機関車
San Francisco de Paula教会裏にあった機関車
駅まで行ってみることに。途中長い列車が走っているのが見えた。目指している駅舎とは別に少し南に行ったところにも駅があり、そこを目指して歩いている人がぞろぞろ。駅舎はとっても立派でびっくりだが、中に入るとしょぼい。ホームの数も少ないし、うらぶれた雰囲気。
駅舎の北側にも古い機関車がずらっとあるのを発見。金網の外から写真を撮るだけにしようと思っていたが、またまた呼び込みに合い中を見せてもらうことに。まるで「てっちゃん」。でも、楽しい。lulun は金属の「鉄」が大好きなのだ。それにしても何に関心を示しながら歩いているか観察されているのがわかる。
歩き進むうちに市場を発見。
めずらしく調理用のバナナもあった。基本的にシーズンでないようで、レストランでもバナナを使った料理を食べることができなかった。バナナ好きの lulun としては残念。
ここの市場は充実していて、一番野菜の種類が多かったし、米などの乾物も売っていた。
お腹がすいたので、市場でサンドイッチを売っていたので買って食べたらおいしかった。繁華な方へもどって、地元の人が食べているような軽食やおやつをいろいろと試してみる。CUC でなくキューバ・ペソ(lulun は人民ペソと名付けて呼んでいた)を使うところで、こういったものを食べるのも楽しい。
一昔前に栄えていたっぽい通りに CUC 専門のデパートを発見。品揃えがほかより少しマシ。金のある人がこういうところで買い物ができるようだ。
一度、宿に戻ってシエスタ。さすがに疲れているのか少し眠ってしまった。夕方になるとキッチンから豆を煮る良い香りが漂ってきて気になる。
CUC が寂しくなってきたので両替。多めに持ってきたカナダドルがなくなったので予備に持ってきたスイスフランを両替する。観光客から外貨を吸い上げる仕組みができているので、思ったよりもお金のヘリが早いようだ。買い物は全くしていないのに。
夕方 5時まで公開している Ambos Mundos Hotel のヘミングウェイの部屋を見に行く。ヘミングウェイは実は二人ともあまり感心がなかったのだが、このホテルの写真を撮ってきて欲しいという依頼を受けて訪問。ここ以外にもハバナおよび近郊にはヘミングウェイゆかりの地がたくさんあり、観光スポットになっていて、いろいろと目にしたり話を聞いたが、人物像が浮かばない。帰ったら有名なものだけでも読んでみようかという気になった。若いときには分からなかったおもしろさを今なら感じることができるかもしれない。
Hotel Ambos Mundos:一階はヘミングウェイの写真が並ぶ
公開時間中に勝手に部屋に行って入れば係の人がいて、簡単な説明や料金の徴収をやっている。
狭い部屋で、よくこんなところで7年(1932-1939)も暮らしたものだと感心してしまう。もっとも、その間ヨーロッパやアフリカに行ったりしているのでどのくらい滞在したのかは分からないが「誰がために鐘は鳴る」はおおむねここで書いたとされている。
調度品もヘミングウェイが使っていたものがそのまま。高さの調整できるテーブルでタイプライターを使っていたらしい。膝を痛めていたときは立って打っていたとか。
Hotel Ambos Mundos:ヘミングウェイの部屋からの眺め
ヘミングウェイもお気に入りだったという眺めはよい。
観光客が絶え間なくやってくる。部屋の見学の後は、エレベータ係のおじさんが教えてくれた眺めの良い屋上のテラスへ行ってみる。高いところからハバナの街を見下ろすことができたのは大きな収穫。一杯飲みながらのんびりするのも良いのだけれど、風が冷たかったし、明るいうちにもう少し歩きたかったので景色だけ眺めて引きあげる。
革命博物館の展示の一つ、ガラスケースに入ったグランマ号。フィデル・カストロやチェ・ゲバラがメキシコからキューバへ上陸するときに使われたヨット。柵の外から撮影だけ。
目の前に修復を終えたピンクと黄色のハデな色合いのフランス式の建物が見えてきた。横に行くと、フランス式の建物の真ん中部分だけイスラム風(南スペイン風)になっている妙な建物で Hotel Sevilla だった。
ヘミングウェイがダイキリを飲みに通った La Floridita で一杯やってくつろいだ後、私営レストラン La Julia で夕食。
今日の歩きは 18,447歩。